1519年 0歳 駿河国(静岡県)で父今川氏親(46歳)・母正室寿桂尼(じゅけいに)の五男として産まれる幼名は菊丸
五男なので家督を継ぐ立場になく、栴岳承芳(せんがくしょうほう)と名乗り善得寺(地図赤①)で修行を行い、その後健仁寺(地図赤②)・妙心寺(地図赤③)等に移り学んでいた
1536年 17歳 長兄氏輝(23歳)と次兄彦五郎(年齢不詳)が同日に亡くなってしまう
氏輝は病死と言う説もあるが2人同日に死亡した原因は謎に包まれている
異母兄弟の玄広恵探(19歳)(げんこうえたん)と 家督争いをし当主の座を勝ち取る
今川家はそれまで北条氏と手を組み甲斐の武田氏と争ってきたが、今川義元は武田信虎(42歳)の娘で武田信玄(16歳)の姉になる定恵院(18歳)を妻とし武田家と同盟を結んだ
これに怒った北条氏綱(49歳)が駿河国(静岡県)に攻め込んで今川義元から河東を奪い、1545年までの9年間争うこととなる(河東の乱)
1545年 26歳 長く続く戦いの中、今川義元は北条氏と敵対する上杉憲政と同盟を結び駿河国(静岡県)を今川家と武田家、関東を上杉憲政という形で挟みうちにした
関東の上杉軍が8万もの大群で河越城(埼玉県)を包囲したことにより諦めた北条氏康は武田信玄に仲介を頼み、河東を返還するという形で和睦となった(地図赤④)
北条家と並行し三河国(愛知県)への侵攻も行っており、同じ三河国を狙う織田家とも戦を繰り返していた
1542年 23歳 織田信秀(31歳
)との第一次小豆坂の戦いに敗れる(地図赤⑤)
1547年 28歳 岡崎城を居城とする松平広忠(21歳)(徳川家康の父)は織田家の攻撃に耐えかね今川義元に助けを求めるその際竹千代(5歳)※徳川家康を人質に出す約束をする(地図赤⑥)
しかし 護送を行っていた戸田康光の裏切りにより竹千代は織田信秀に売り飛ばされてしまった
1548年 29歳 織田信秀(37歳)と第二小豆坂の戦いで勝利を収めた(地図赤⑤)
1549年 30歳 松平広忠(23歳)が暗殺され、竹千代(6歳)を人質に取っている織田家に岡崎城(地図赤⑥)を取られる可能性が大きくなった為、織田信広が守る安祥城(地図赤⑦)に攻め込み織田信広(織田信長の異母兄弟)を捉えた
織田信秀により信広と竹千代の人質交換が行われ、岡崎城(地図赤⑥)と安祥城(地図赤⑦)を手中に収めたことから三河を領国とした
1550年 31歳 正室の定恵院が亡くなり武田家との婚姻関係が絶たれてしまう
1552年 33歳 娘の嶺松院(11歳※推定)を武田信玄の嫡男義信(15歳)に嫁がせることによら再度婚姻関係を結ぶ
1553年 34歳 「今川仮名自録追加」を制定し室町幕府との関係を断ち切る
1558年 39歳 嫡男の今川氏政(20歳)に家督を譲る
1560年 41歳 桶狭間の戦いで織田信長(27歳)に敗れ討ち死にする(地図赤⑧)