いらすとやより
1159年 0歳 父源義朝の9男として産まれる
母は側室の常盤御前(ときわごぜん)
幼名は牛若丸
母常盤御前は常徳寺(地図赤①)で安産を祈願し、光念寺(地図赤②)で腹帯(はらおび)地蔵を寄贈し義経が無事生まれてくることを祈った
その後無事 義経が生まれ(地図赤③④)、 松の木の下にへその緒と胎盤を埋めたと言われている(地図赤⑤)
1160年 1歳 平治の乱により父の源義朝(38歳)は死亡し、異母兄である源頼朝(14歳)は伊豆に流刑となる
義経は母常磐御前に連れられ今若・乙若の2人の兄と共に大和国※現奈良県 へ逃げた
途中母である常盤御前は清水寺の子安の塔を訪れ千手子安観音に無事を祈願したと伝えられている(地図赤⑥)
鬼一法眼社(地図赤⑧)※きいちほうがんしゃ にて兵法を授けられた
またこの頃弁慶と出会ったと言われている
1174年 15歳 鏡の宿(地図赤⑨)※現滋賀県 にて元服し、奥州平泉※現岩手県 へと下った
1180年 21歳 源頼朝(33歳)が挙兵したことを聞きつけ駆けつける途中、菩提所のわき水(地図赤⑩)で義経を慕っている浄瑠璃姫へ手紙を書いた
黄瀬川の陣で源頼朝と20年ぶりの涙の再開を果たす(地図赤⑪)
1184年 25歳 一ノ谷の戦い(地図赤⑫)に勝利
この戦に行く途中で腰をかけて休んだと言われる岩が今も残っている(地図赤⑬)
河越重頼の娘郷御前と結婚する
1185年 26歳 屋島の戦い(地図赤⑭)で勝利し、その後の壇ノ浦の戦い(地図赤⑮)で平氏を滅ぼす
これにより後白河法皇から褒美を受けるが、源頼朝に無断で受けてしまったため怒りを買う事となり、鎌倉へ戻ることが許されなくなってしまう。
許しを請う手紙いわゆる腰越状を出す(地図赤⑯)もなしのつぶてで、しまいには義経追討の命令が出されてしまい命を狙われる身となってしまう
1187年 28歳 幼いころにお世話になった藤原秀衡をたより奥州入りをするも直後に秀衡が病死
1189年 30歳 秀衡の子である泰衡の裏切りにあい衣川館で襲われる
このとき弁慶が義経をかばい1,000本の矢を受けるも倒れることなく立ち続けたまま死んでいたと言う有名な逸話が残っている
義経は最期抵抗することなく正室の郷御前と子どもを殺害し、その後自害した
死後義経の首は鎌倉へ届けられるが泰衡は義経をかばっていたとされ頼朝に殺され奥州藤原一族は滅んでしまう
ところが実は義経は生き延びて北海道へ渡っていたという伝説が残っていて、事実北海道には義経にまつわる史跡が多数残されている。
またその後モンゴルへ渡りチンギスハンは実は義経であるという噂もあったが、これは近年学術的に否定されている。
義経にまつわる伝説は他にもあり、千葉県銚子市の犬吠埼の地名の由来が、源頼朝に追われ逃げる途中連れていた愛犬「若丸」を連れていくことが難しくなり、この地で置いていくことになったが、置いていかれた若丸は義経を恋しがり7日間泣き続けた事から犬吠埼と言われるようになったと言われている(地図赤⑱)
※諸説あり
【牛若丸奥州への足跡】※地図ちゃいろ
①栗原寺
②飯縄寺
【義経鎌倉への足跡】※地図むらさき
①住吉玉津津島神社
②白河の関
【義経奥州への逃亡の足跡】※地図きいろ
①大物主神社
②吉永神社
④駒つなぎの桜
⑤四天王寺
⑥摂津國一之宮住吉大社
⑦比叡山
⑧興福寺
⑨鼠が関
⑩気比神社
⑫義経如意の渡
⑬平泉白山神社
⑭義経石
⑯念珠関跡
⑰義経社
⑱義経の船隠し
⑲よし竹庵
【義経北行伝説足跡】※地図グレー
①義経神社御神木
②弁慶の刀掛岩
③義経寺
④熊野神社
⑤白銀町源氏囲内
⑥館越稲荷社
⑦矢止清水
⑧おがみ神社
⑨三八城神社
⑩厩石
⑪長者山
⑫帯島
⑬小田八幡宮
⑭三厩
⑮兜岩 北海道泊村
【源義経像】※地図みどり
①源義経弁慶像
③源義経像
【屋島の戦いへの道のり】※地図水色
①勢合(せいごう) ※ 四国に上陸した際に他の 義勢と集合した場所
② 釈迦庵(しゃかあん) ※ 釈迦寺谷にあった庵で義経軍はここを通過している
③ 弦張坂 ※ 峠の向こうに敵がいないか弓を張って登った坂
④弦巻坂(つるまきざか) ※ 敵がいないことが確認でき弦をはずし巻き取った坂
⑤旗山(はたやま) ※ 源氏のシンボルである白旗を立てた山 義経騎馬像がある
⑥天馬石(てんまいし) ※ 源平合戦で活躍した名馬池月が天から舞い降りて石に化けたという伝説の石
⑦弁慶の岩屋 ※横穴式古墳で弁慶ほどの力持ちでなくては作れないであろうということで名付けられた
⑧新見城址(にいみじょうし) ※ 屋島への道案内をしたという近藤六親家の居城跡
⑨くらかけの岩 ※ 義経が馬の鞍を置いたと言われる巨岩
⑩中王子(なかおうじ) ※ 熊山城を攻める作戦を練った場所